初心者にもお勧め。
シングルモルト・ウイスキー IWAI TRADION ![]() 1960年。岩井氏の設計図から その歴史は始まった。 ウイスキー製造のシンボルとも言える蒸留機(ポットスティル) マルスウイスキーの歴史は、このポットスティル なくしては語る事が出来ません。 弊社のウイスキープラント設計を製造指導をした人こそ 「岩井喜一郎」氏であり、この方こそがマルスウイスキー の生みの親であります。 「IWAI TRADION」は、このポットスティルで蒸留された ウイスキー原酒をベースに、 数種類のウイスキー原酒を 絶妙なバランスでブレンドしたブレンデッドウイスキーです。 「竹鶴レポート」を作らせた男…岩井喜一郎氏 ![]() 国産ウイスキーの生みの親と知られる故竹鶴政孝氏。 当時24歳だった竹鶴氏に日本の本格の夜明けを託し 上司として彼を英国に送り出した男こそ故岩井喜一郎氏です。 竹鶴氏はスコットランドにおけるウイスキー研修の結果を 「ウイスキー報告書」にまとめ岩井氏に提出しました。 それこそが、後に国産ウイスキーの原点となった 「竹鶴レポート」です。 マルスウイスキーは当時本坊酒造の顧問を務めていた 岩井氏のもと、竹鶴レポートを参考に設計された ウイスキープラント“岩井ポットスチル”によって 蒸留された原酒を元に誕生しました。 岩井さんは、竹鶴さんの上司だったのですね~~ 初めて知りました。 明治16(1883)年8月17日、大阪市生れ。 明治35(1902)年7月、大阪高等工業学校(大阪大学) 醸造科卒(第1期生) *14期生にはジャパニーズウイスキーの創始者 竹鶴政孝氏 明治42(1909)年8月、合資会社摂津酒精醸造所就任 (後に宝酒造に吸収合併) 大正5(1916)年3月、竹鶴政孝氏、摂津酒精醸造所入社。 大正7(1918)年6月、部下の竹鶴氏をイギリスに送り出す。 大正9(1920)年11月、竹鶴氏帰国後、「竹鶴レポート」 を上司の岩井喜一郎へ提出。 昭和20(1945)年1月、本坊酒造(株)、顧問就任。 昭和24(1949)年7月、ウイスキー製造免許を取得。 昭和33(1958)年6月、黄綬褒章を受ける。 昭和35(1960)年3月、山梨県石和にウイスキー工場を建設。 岩井氏指導のもと、現在のポットスチルが設計される。 逝去年、不詳。 マルスウイスキー 信州ファクトリー ![]() 鹿児島の地で日本の蒸留酒「焼酎」造りに邁進していた 本坊酒造が、ウイスキー製造免許を取得したのが昭和24年。 それ以来 「いつか日本の風土を生かした本物のウイスキーを造りたい」 と夢を抱き続けていました。 まず、昭和35年に山梨にワインとウイスキー製造のための 工場を設立。そして、本格的にウイスキー造りに取り組む ために、さらなる理想の地を探し求めていました。 澄んだ空気の寒冷地であり、しかも適度な湿度と良質な水に 恵まれていることなど、ウイスキー造りのための自然条件は たいへん厳しいものがあります。こうした条件を満たす 土地を探し求め、紆余曲折を経て、信州宮田村に工場を新設 することとなりました。中央アルプス駒ヶ岳山麓のこの地は 冬は氷点下15℃を下回る日も珍しくない寒冷地であり、 適度な湿度をもたらす霧も多く何より良質な水を有して いました。中央アルプスの雪どけ水は、ゆっくりと 花崗岩質土壌に浸透し濾過され、ウイスキーに最適な 軟水となって湧き出してきます。 そこは、まさに長い年月をかけて、探し求めていた ウイスキー造りの理想郷でした。 *武蔵屋さまより引用 今年になって、本坊酒造さんの山葡萄のワインや スパークリングなどを飲む機会があり 日本でワインやウイスキーを作るのって 風土的にも、難しいと話を聞いたことがありますので 頑張っている企業なんだな!って好感度UPしました。 国産ウイスキーと言えば、竹鶴や余市・・宮城峡などが 有名ですが、そんな竹鶴さんの先輩である岩井さんが 手がけたウイスキー、是非飲んで見て下さいね。 テーマ:九州(福岡・佐賀・長崎・熊本・大分・宮崎・鹿児島)・沖縄地方の各県の路線案内 - ジャンル:地域情報 |
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