![]() 先日ニュースで、戦艦 武蔵が見つかったと・・・ 今年は、太平洋戦争終戦から70年という節目の年 スポニチには、こんな記事が ![]() 武蔵元乗組員、驚きと感慨 戦後70年の節目 「乗組員の魂が呼び掛けているのでは」 http://www.sponichi.co.jp/society/news/ 2015/03/04/kiji/K20150304009917100.html 次第に戦争の事を語り継ぐ方も減り 戦争を知らない人々ばかりになって来ました。 ![]() 母が、沖縄の平和の礎に叔父さんの名前が あるはずなのよ。。。と 祖父の兄である初次郎さん。 明治42年生まれ 36歳で戦死しました。 祖父は、兄が大好きだったらしく 小さい頃、よく初次郎さんの話を聞かせてくれました。 「本当に頭が良くて算術の神様と言われていて 先生を手こずらせる兄だったと。」 私は、会ったことはありませんが 写真で初次郎さんを見せて貰いました。 この初次郎さんの事が詳しく知りたくて 色々調べていましたら 陸軍の方は終戦時(戦没時)に本籍のあった 各都道府県庁の担当部署(援護課) 海軍の方は厚生労働省になります。 ![]() 少しでも何か分かればと思い 色々な所に今問い合わせをしました。 終戦2ヶ月前に戦死。 あと少しだけ生き延びてくれていれば 会って話をすることが出来たのに。 祖父は、通信兵でしたので 無事に帰ってきましたが 当時の写真を沢山見せて貰い 幼心にモノクロの写真を見てハッとしました。 にこやかに笑う戦友。 でも、どこか悲しげな笑顔。 戦地に向かった人々は、どんな気持ちで 過ごしていたのだろう?と思うと 本当に辛いですね。 祖父は、海軍でした。 海南島の南部の三亜の海南警備府司令部 で通信兵をしていました。 当時の重要な軍事拠点だったそうです。 昭和二十二年復員 復員には復員船と呼ばれた船舶が必要ですが 終戦の時点では、船舶の殆どが沈められ 燃料も無かったので、出せる船舶が殆ど なかったようですね。 女性や子供が優先的に復員船にのり 後の兵士は順番待ちだったようです。 祖父は、終戦2年目に日本に帰国してきました。 祖父の日記などが残っていれば良いのですが 当時の記録は、何もありません。 あるのは、モノクロの写真と祖父が書いた絵 後は、祖父が読んで居た本などだけです。 ですから、初次郎さんの事を知るのも困難。 母は、初次郎さんとの面識が無く 祖父に聞いた話だけだと・・・ ダメかな?と思いながら待っていると 資料が送られてきて、部隊などが判明 ![]() 部隊出発から~どこに移動して何をしたかが 記載されています。 最後当たりは、読んで居て胸が詰まりました。 昭和20年 7.10 現下の敵状並に糧秣欠乏の状況 尚発患者多数 弾薬欠乏の有様 急務なる糧秣緊急大部隊の行動 集結は困難にして戦斗の目的を達すること 出来ざると判断 中退は長期の戦斗に ![]() 目的を以て分散 喜仙原恩納岳阿布蘇付近に位置し 遊 ![]() 終戦間際は、食料も無くなり弾薬も無し・・・ 歩くのも困難な程やせ細り 飢えとの闘いだったのかも知れませんね。 初次郎さん、6月3日に無くなっているので 前日の連隊恩納岳転出により弾薬糧秣搬送と 書かれている後日に亡くなっています。 ![]() 搬送しただけで、食料がみんなに配給されたかは? 後日は、自分の部下達に芋を取りに行くと 出かけ、そこで一斉射撃に遇い亡くなっています。 祖父の弟はルソン島で戦死 一番下の弟は満州にて亡くなっています。 祖母の弟も佐世保港を出港してまもなく 戦闘に入り船は沈没・・・亡くなりました。 今となっては、母が聞いた話と私が聞いた 話だけが頼りです。。。 もっと早くに行動していれば良かったと後悔しています。 せめて、祖父が生きている間に もっと色々聞いておけば良かったと。 ![]() 一等兵から上等兵、そして兵長と 書かれています。 階級なんてどうでも良いですね。 生きて帰ってくれば、そんな勲章は不要です。 初次郎さんに会ってみたかった。 私は、祖父が大好きです。 その祖父の大好きなお兄ちゃんだから きっと素敵な人だったのだろうと想像しています。 命をかけて日本を守ってくれた人々が居たからこそ こうして、平和に暮らせる日本があるのだと。 英霊に感謝し、この平和をずっとずっと 守り続けたいと思います。 平和の礎で名前を見つけて 爺ちゃんに報告に行きたいです。 |
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