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吉村貫一郎は実在するのか?ウィキペディアに『慶応丁卯雑記』に「右は新選組目付役吉村貫一郎と申者より聞取、元嘉村権太郎」とある壬生義士伝は映画ですから脚色されている部分も多く…実話とは違うストーリーですが吉村貫一郎(中井貴一)の生き方…家族愛、そして”義”吉村は、本物の侍なんだと。官軍へ突撃の名台詞「新撰組隊士吉村貫一朗、徳川の殿軍ばお務め申す。一天万乗の天皇様に弓引くつもりはござらねども、拙者は義のために戦いばせねばなり申さん。お相手いたす。」鉄砲隊がいる中に突撃していきました。https://www.memories-of-movie.com/さんに、詳しい内容が掲載されています。”激動の幕末ーまっすぐに生きた男がいた。生きるために戦った男がいた。愛するために生きた男がいた。『旦那様、ご苦労さんでござんした。私達の為によく働いて、ご苦労さんでござんした。』”ラストで…斉藤(新撰組・佐藤浩市)が吉村貫一郎の娘に…「おもさげなござんした、吉村先生。」色々な思いをこの一言で…映画を見て、小説を読まねばと思いました。大野次郎右衛門の手紙を読んだ時表題の意味が分かると小説レビューに書かれていました。お手紙だけは下記のサイトで読めます(^ー^* )壬生義士伝 浅田次郎著よりこちらサムネイル表示です。クリックすると大きな画像になります。おまけ 新撰組ナビよりSource;https://shinsengumi-kanko.com/”元治元(1864)年からこの玄武館に通った吉村貫一郎は、慶応元(1865)年、盛岡に戻るよう命じられて脱藩します。そして新選組の隊士募集に応じて京に上ります。この時江戸に隊士募集に来ていたのは土方歳三、斎藤一、伊東甲子太郎、藤堂平助などです。玄武館に通ったのは1年ほどでした。「壬生義士伝」では、鳥羽伏見の戦い後、大坂の南部藩蔵屋敷に逃げ込み、家族を養うため「これからは勤王のために働くので匿ってほしい」と頼んで、蔵屋敷差配役の大野次郎右衛門に切腹を申し付けられたというエピソードが有名です。上のエピソードは、西本願寺侍従の西村兼文が書いた逸話が元になっています。しかし史実では、大野次郎右衛門という人物は存在していません。また、伏見の御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)が作った「戊辰東軍戦死者霊名簿」や、史談会の「戦亡殉難志士人名録」、嘉村家の過去帳では、鳥羽伏見や各地の戦闘で戦死となっています。永倉新八の「新選組顛末記」の巻末にある遺稿(永倉新八が同志名簿やその死因などをまとめたもの)には、吉村貫一郎の欄に「殺害せらる」とだけ書いてあります。戦死した隊士の欄には「戦死」と書いてあるので、「殺害せらる」は戦死以外の状況を指しているようですが、どのような状況だったかは不明です。吉村貫一郎は遺体すら行方不明で、西村兼文が書いたような逸話が本当にあったかどうかもすべて謎のままです。吉村貫一郎の墓は故郷の盛岡市・恩流寺に、本名の「嘉村権太郎」名であります。”とにかく本を購入したいと思います(^ー^* )Amazon 壬生義士伝 上
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